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自分の釣り人生を振り返ってみる

釣りコラム

”釣り人生”なんて大層なもんではないですが、小さい頃からの生き物との関わりの中でとりわけ魚との関わり、そして釣りとの関わりを振り返ってみたいと思います。

誰に宛てるわけでもない、今の自分の立ち位置を確認するだけの駄文につき読むに耐えないかもしれないがご容赦を。

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1970年代生まれ大阪北部育ち

子供の頃から魚に触れる機会は比較的多かったと思います。

今でこそ減ってしまいましたが、私が生まれ育った大阪北部の町は1970~1980年代当時田んぼや畑が多い地域で、農業用の用水路がそこかしこに張り巡らされていました。家の前を流れる小さな用水路、その草陰に網を入れれば、ドジョウや小ブナが簡単に掬えた記憶があります。

今も当時と同じく水路は残されているんですが、田畑が減ったせいか常時水が流れている状態ではなく、加えて3面コンクリート護岸が標準になったせいか生き物も住みにくい環境になっている印象です。

5分も歩けば猪名川という一級河川もあり、そこでは用水路より大きな魚が捕れたり釣れたりしました。魚をつかんだときのブルブルした動き、ぬるぬるした感触、手の生臭さ、今でも思い出せます。自分の釣り人生の原点はここ猪名川から始まります。”釣りはフナに始まりフナに終わる”という言葉がありますが、確かにフナ(マブナ)から釣りが始まりました。

猪名川での小物釣りをした少年時代

猪名川でいくらでも釣れた小魚

猪名川と聞いて「ああ、あの水質全国ワーストの常連か、汚い川だな」と思う人がいるかもしれません。実際、一部流域の水質はワースト1位だったりするらしいですが、私の生まれ育った地域はそこよりも数キロ上流で水質に問題はありません。

どうやら猪名川でも豊中付近の一部流域周辺だけが極端に水質が悪いようです。

とはいえ、私の子供時代の猪名川は今より確実に汚かったはず。流れに高低差がある堰堤では川の水がブクブクと泡立っていたし、そこには必ずといっていいほど空き缶や洗剤の空き容器が流れに巻かれてプカプカと浮いていました。

当時はまだ下水道の整備や工場排水の規制が万全ではなかっただろうし、人のモラルも低くてゴミのポイ捨ても多かったと思います。それでもなぜか今より魚影が濃くて、いろんな魚が釣れました。

猪名川で色々な川釣りを覚えた

ミミズを餌にしたマブナ釣り、毛鉤の仕掛けを流してオイカワ釣り、サバ虫を餌にした小物釣り、吸い込み仕掛けを使った大物釣り、当時流行り始めていたルアーでのブラックバス釣りもちょっとだけやりました(海用の投げ竿で)。

大雨が降って川が濁ると、普段は釣れない大物や夜行性のナマズやギギが昼間でも釣れるのを経験で知っていたから、雨上がりの濁流の淀みで釣りをすることもありました。今思うと危険ですね。

今も川釣りをするんだけど

今でもたまに猪名川で小物釣りをするんですが、ポイント選びに苦労するようになりました。

どこもかしこも昔より水深が浅くなっていて、岸から容易に川底が見える状態。思い込みの可能性もありますが、この状態は阪神高速池田線の延長工事以降に顕著になったと記憶しています。上流から工事用の土砂が流れて堆積した結果じゃないでしょうか。

先に”なぜか今より魚影が濃くて”と書きましたが、おそらくこれに起因していると考えています。水質は改善されたのに魚が減ったのは皮肉。

それでもとっておきのポイントを見つけて小物釣りを楽しんでいましたが、2014年に大規模な河川改修工事が猪名川で行われ川岸がすっかり様変わりし、さらに川底が浅くなりました。とっておきポイントも重機でかき回されて跡形もなくなってしまった。治水目的の工事だろうから工事自体を否定はしませんが、静粒の多様性がなくなるのは悲しいし不安もあります。

そして海へ

小学校4年生ぐらいの時期だったと思います。それまでは川で釣りをするだけでしたが、この年ぐらいから海釣りを始めました。

きっかけは覚えていませんが、一緒に釣りをしていた父の意志だったのでしょう。今はなき釣りサンデーは毎号家にあったし、眠い目をこすりながらビッグフィッシングを観ていました。さかな大図鑑の愛蔵版(名書!)は今でも持っています。

尼崎産のボラを食う

初めての海釣りは夏場の尼崎海釣り公園。

セオリーどおりサビキ釣りから。茶色っぽい濁った海でしたが、時期がよかったのかたくさん釣れました。川とは比べ物にならないほど魚影が濃いと感じたのを鮮明に覚えています。

調子に乗って、釣れる魚釣れる魚、全部クーラーに入れて持ち帰りました。サバ、イワシ、アジ、ボラなど…。えっ!?ボラ?尼崎の?しかも夏場の?そう、ボラがそんなに忌み嫌われている魚とは知る由もなく、やったー大物釣れたーとのん気に喜んで母に見せて料理をしてもらいました。

当然、血抜きなどしてるはずもなく。確か煮付けにしてもらって食べたと思う…正直味は覚えていません。しかしそれ以来、ボラが釣れても即刻海にお帰りいただいています。

タチウオ釣りとの出会い

須磨海釣り公園にもよく足を運びました。

子供の目にも、尼崎の海とはまるで違う綺麗な水質だということは理解できてました。当時の須磨海釣り公園は、沖側の釣台がコの字ではなくロの字でぐるっと一周できる構造だったのを覚えています。詳しくは知りませんが台風で破損してからコの字の状態になったらしいですね。

今は無きロの字の沖向き、須磨海釣り公園で一番沖に位置する釣台です。そこで初めてタチウオ釣りをしました。

タチウオ釣りというと今でこそワインドやウキ釣りなど様々な釣り方がありますが、当時、1980年代後半の須磨海釣り公園では、記憶する限りほぼ全ての人がテンヤの引き釣りでタチウオを狙っていました。かなり混雑した釣り場だったから、たぶん父親に仕掛けを投げてもらってから自分がリールを巻いていたと思います。

夕暮れの海、飛び交うケミホタル、まるで凶器のようなテンヤ仕掛け、公園の売店で買った”やきそばを入れるような透明容器”で売られていた餌用の冷凍小アジ、そして何より釣り上げたタチウオの刃物のような美しさ。子供の頃の釣りで最も印象深いものでした。

それから数十年経った2014年に釣りを再開した際は秋にタチウオを釣り上げるということをその年の目標に掲げ、10月の南芦屋浜でそれを達成しました。達成なんて大げさなと思うかもしれませんが、自分にとっては確かに一つのゴールだったのです。

それを息子の前で出来たというのは今思えば感慨深いです。息子はあの時どう感じたでしょうか。大人になっても覚えていてくれるのでしょうか。

20年ぶりに釣り上げたタチウオ

少年時代最後の釣り

少年時代の最後に釣りをしたのは、確か中2のとき。

場所は同級生数人で行った垂水漁港。明石海峡大橋はまだ建設中で主塔のみがそびえ立つ状態、垂水漁港の西はまだアウトレットモールが出来る影もなく遠くまで砂浜が広がっていました。

確か何も釣れなかったので飽きてしまい、こともあろうか巨大テトラ帯で鬼ごっこを始める始末。今思えばめちゃくちゃ危険なことをしてました。そんな中、一番運動が神経がいいやつが滑って傷だらけになったのを機に白けてしまい、とぼとぼと帰路についたのを覚えています。

それがきっかけだったというわけではないですが、それから20年間、なんとなく釣りから遠ざかることになります。

少年時代の終わりを感じた瞬間

少し本題と外れます。

釣りではないのですが、網で魚をとるのも好きでした。網を川岸の茂みに構え、足を使ってそこに魚を追い込む、いわゆるガサガサというやつ。当時もその名前で呼ばれていたかは定かでありません。

川エビがよくとれたし、小魚はもちろん思いがけずナマズの稚魚なんかも網に入ることがあって、網をあげるまで何がとれるかわからないワクワク感がありました。

このワクワク感は魚の活性が高いシーズンにサビキ釣りをする感覚と似ています。秋ぐらいだとサビキにいろんな魚がかかるじゃないですか?チャリコやらカワハギやら。未だ私はそれにワクワクします。その感覚は変わっていない。

なんとなく中学生になってこんな子供じみたことをしていると恥ずかしいという固定観念があって、実際に小学校6年生の夏を最後にやめました。その時見上げた猪名川大橋の青い橋桁は今でも記憶に残っています。ああ、次にこれができるのは自分に子供ができてからだろうな、想像できない、気が遠くなるような未来。当時はそう思いました。自分の少年時代はここで一区切り、そう感じた瞬間です。

今でこそ趣味の多様化とか何とかで大人が子供の遊びをしてもOKみたいな雰囲気はありますが、当時はそうじゃなかった。大人になるんだから子供の遊びややめなきゃ、ほんとうにそう思ったんです。ちょっとした覚悟。

人生一周してまた魚取りをする機会がくる

それから約20年後の2013年、同じ猪名川のドラゴンランド横にある小川でついに子供とガサガサをすることができました。オイカワの稚魚や川エビ、シマドジョウなどがとれました。生き物と触れ合うのはやっぱり楽しい。これが翌年2014年に釣りを再開する布石となったわけです。

ちなみにこのドラゴン公園横の小川ですが、2014年の増水でぐちゃぐちゃになってしまい再整備されました。2014年は記録的短時間大雨とやらが週末ごとに発表されて花火大会やお祭りが続々中止となり散々な夏だったのを思い出します。せっかくいい具合に川岸の植物が生えていて小魚のいい隠れ家になっていたのに、土がむき出しのつるっぱげ状態から再スタート。

その後この小川はたびたび土に埋まり、今はどうなっているか分かりません。

釣りから遠ざかっていた20年

高校生から大学生、そして社会人となり結婚をし子供が小学生になるまで、 釣りとは無縁の生活を送ることとなります。その間、趣味といえるものは何かあったかな。釣りブログとしては蛇足になるが、振り返ってみよう。

そうだ、音楽があった。それまでも流行りモノは聴いていたが、中学の頃にはまった電気グルーヴのオールナイトニッポンをきっかけに”テクノ”と呼ばれる音楽全般を聴くようになり、そこから音楽の間口が一気に広がりました。

歌が入ってなくても良いものは良い、それが分かるとなんでも聴けました。今でこそ年に数枚しか買いませんが、大学生当時はかなりのバイト代をつぎ込み、いまだに数百枚のCDが手元に残っています。

映画もたくさん観ました。どちらかというとマイナーな音楽と映画。お前らが知らないものを俺は知っているのだ。ただそういうふうに自分が思い込んでるだけで、今思えばいかにも学生らしい月並みな趣味でした。その時は自分の感性はとんがってるんだと思い込んでいましたけど、全然

2014年に釣りを再開

そうして、結婚をして子供が生まれ、息子が小学校にあがったのをきっかけにして釣りを再開することになります。詳しくは別の記事を参照されたし。

釣りのススメ

釣りをすることで家族間共通の趣味やレジャーとして楽しめるようになったし、 それまであまり食卓にあがらなかった魚類も頻繁に食べるようになりました。今では家族みんな魚好き。

命の大切さだ食育だと意識高めなことを書くつもりはないですが、釣りはいろいろなことを教えてくれると思います。自然の豊かさや美しさとその裏側にある怖さ、天候や潮の知識、環境への関心、状況を判断し工夫して目的を達成することの気持ちよさ、失敗するくやしさ、他人との関わり方、大人になった今でも勉強になることが山ほど。子供にとったら、大人よりたくさん得るものがあると思います。

私自身は恥ずかしながら社交性に乏しい人間ですが、息子は釣りに行って見ず知らずの人に話しかけられるのがとても嬉しいらしいです。いいことだ。

この記事は関西在住の釣り人が書きました

1978年大阪生まれ大阪育ち大阪在住。

家族共通の趣味を持つべく2014年に20年ぶりの釣りを再開。京阪神の海にて活動する小物ハンター。釣りの目的は現実逃避とおかずの確保。海は大きい、自分で釣った魚は美味しい。それでいい。

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